これまでの道のり

弱い自分

全部周りに任せて生きてきた

物心ついた時からずっと人任せ。

子どもの時、学校で配られていたプリントは、読みもしなくて

大事なことにも気が付かなかったが、親や先生が何とかしてくれた。

専門学生をやっていた時も、実家の家事の手伝いなんてほとんどしないで

遊び惚けていた。

社会人になってからも、自分では考えず、何とか滑り込んだ適当な会社で

なんとなく周りに合わせて、考えなんてなくフワフワやっていた。

自分の限界を知る

ある時仕事で、遠方に行き駐在することになった。

当時職場に、「自分が少しでも力になってあげたい」と思える人がいたが

これまで人任せだったから、スキルも目標も熱量もなく、そんな人間は、当然役立たず。

むしろ迷惑ばかりかけていて、派生して様々なことに悩んだ。

家族や友達から離れて、一人で考え込む日々が続き、ある日、ついに壊れてしまった。

病を患う

うつ病になった。

病気になったのは、大した理由ではない。もっとつらい思いをしている人は、遥かにいる。

温室育ちが社会に出て、人並みに風にあたったところ、ポキっと折れただけだ。

それでも、あの状態にはもう戻りたくないし、病名を聞くのも未だにドキッとするくらいには

嫌な思いをした。何もかも「無意味」に感じて、生きている意味がないと、常に思っていた。

色は見えているのに、なんだか本当に景色が全て灰色に感じていた。

病院の先生は「世界に生命感がないヤツね」っていっていたけど、その通りだったと思う。

先輩や、周囲の助けで歩き出せた

家族や親しい人たちに始まり、復職施設の仲間たち、職場の先輩たちのおかげで

徐々に、人並みの元の生活に戻ることができた。

特に思い出深いのは、落ち込んでいるときに、先輩Kが「コメダ珈琲」というカフェに連れ出してくれた時だ。

確か「生きてるか?w」とか、おちゃらけた感じのLINEがきて、取り合えず家から連れ出してくれた。

自分はひげをボーボーにして、黒いパーカーを深々とかぶり、先輩Kともう一人の仲間の3人で

カフェの中に入っていった。

席に着くと、そんな姿の私を適度にイジりながら、ジャンジャンと食べ物を頼んでいく2人。

おしゃれな銅っぽい金属のカップに入ったコーヒーや、思いのほかおっきいカツサンド、

アイスクリームの乗った甘いパンケーキなどが出てきた気がする。

食べ物はあまり喉を通らなかったが、くだらないバカ話や、先輩Kが、自分に向って吐いてくるブラックジョークを聞いて、久々に笑った。

たとえ病気になったとしても、いつもと変わらぬ様子で接してくれるのがうれしかったし、楽しかった。

それまでは、本当にしばらくの期間「笑う」ということをしていなくて、聞いたことがない「ヒー、ヒー、ヒッヒッヒッグッグッグッ」といったような、奇妙な笑い声が自分から出て、自身でもびっくりした。

そうやって、優しさや温もりをもらって、徐々に立ち直っていくことができた。

また頻繁に飲み会が開催され、会の中心だった先輩Jは、気さくかつ破天荒に会を盛り上げて

私含め、いつもみんなを、腹を抱えるくらい笑わせてくれた。

助けてくれたみんな、ありがとう。そして

何もできない落ちこぼれにも、手を差し伸べて笑わせてくれた先輩たちは、今でも俺のヒーローだ。

ダセぇ自分

言い訳、他人、環境のせい

病気を経て、自分を追い込んで辛くならないような思考を手に入れた自分は、正直楽だった。

環境のせいにしたのだ。確かに私の駐在先は環境(主に人間関係)がよろしくなかったのは事実だ。

嫌なことは環境のせいにしてストレスを受け流し

「楽しい」というよりかは、「楽(らく)」な生活を続けた。

成長も目標もない、死んでいないだけの人間

社会には、同じ環境にいて、自分より怠けていたり、大した成果を上げていなくても

同じかそれ以上の待遇を得ている人もいる。年功序列だ。

そういった環境で効率よくやるなら、さぼったほうがいい。それは違いない。

だから俺は、頑張ることをやめた。楽だった。

でも、そんなに楽しくはなかった。

挑戦(良いストレス)や、やりたいことを探して、それを目指して、もがかないと

平らで、薄くて、辛くはないけど楽しくもない、そんなクソみたいな繰り返しだった。

命を燃やす自分

かつての上司の不幸

冒頭にあった、かつての上司の、恐らく人生最大であろう不幸は

病気により、小さな一人息子が亡くなってしまったこと。

罹患率が低い病気だったが、進行が早く、しばらくの間

治療のため県内外の病院を回り、死力を尽くされた。

しかし、救うことは叶わなかった。

上司は、わが子の最期の情景を事細かに覚えていて、またそれを

私や仲間を集め、冷静に説明してくれた。

「とても苦しそうに息をして、必死に生きようとしていた。

わが子のそういった最期を看取るのは、覚悟していたが、想像を絶するものだった」

そう教えてくれた。

上司は、非常に論理的かつ冷静な人で、ああいった時にさえ、取り乱さないように

一つ一つ落ち着けて説明してくれたが、隠しきれない痛みや苦しみが伝わってきて

胸がどうしようもなく苦しくなった。

私には小さな姪っ子がいて、その子がもしそうなったと考えるだけでも辛かった。

それなのに、十数年間育てた本当の我が子であれば、いったいどれほどの苦しみだろう。

私は涙がこらえきれなかった。でも、本人が当然一番苦しいなか、平静を保とうとしているのに

私が泣くのは筋違いだと思い、嗚咽も、鼻水をすする音も出すまいとこらえた。

上司の話が終わって解散すると足早に、先輩Kと外に出た。

マスクを外すと私の顔はぐしょぐしょだったが

「コロナ禍でマスクがあってよかったっすわ~!」と私は強がって先輩に言って見せた。

紙タバコはやめていたが、先輩からセブンスターを1本もらって吸った。

2人で無理に茶化しあった。仕事場に戻れる用、何とか気持ちを落ち着けた。

その日から、「今日が人生の最期かもしれない」と思うようになった。

それでも立ち上がろうと、もがく姿

上司は、長期休業に入った。当然だと思った。

目の前から上司がいなくなって、日常に戻りだすと

あの最悪なできごとは、徐々になかったことのように感じてきていた。

むしろ、どうにもならないことだと、考えないようにしていた。

しばらくして、上司は職場に戻ってきた。(家にいるだけではだめだと考えたようだった)

戻ってきた上司は、なんだか思っていた状態ではなかった。

以前より物腰が柔らかくなっており、話しかけやすかったし

後輩にもより優しく仕事を教えていた。

また、健康的に痩せていた。ランニングを始めたようだった。

上司はラーメンが大好きで、それ以前の上司はまさにビールっ腹というやつだったが

毎日欠かさず早朝4時頃に起きて、10キロのランニングをルーティンとしていると

自信をもって話していた。

きっと、その裏では想像を絶する苦しみと戦っているんだろうが

表ではそういった姿は見せず、仕事には一生懸命に取り組み、プライベートでも

より一層、一生懸命に毎日を生きているようにみえた。

私は、「なんてカッコイイんだろう」そう思った。

今日が最後と思って生きる

上司のお子さんの壮絶な最期から「今日が人生の最期かも」という気持ちと

計り知れない悲しみや苦しみからも立ち上がろうと、必死に毎日を生きている上司の姿を見て

私は「命を燃やして生きよう」と決めた。

そこからは、自分はポンコツだからと変にあきらめずに、お金を稼いでみようと

副業のためWEBプログラミングを勉強してみたり、好きなことにチャレンジしてみようと

ジムのトレーナーの面接を受けたりと、積極的にチャレンジを続けた。

上手くいかないことも多かったが、その時に得られたものは、今でも力になっている。

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